資本主義の終焉? いいや、そうではない

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 昨晩のインベスターズTV の生放送で、視聴者からの質問は面白かった。 最近よく耳にするのが、資本主義の限界とか終焉に向かっているといった見解。 それに対しての質問である。

 自分は、そうそうたやすく資本主義が崩れ去るとは思わない。 現に、資本主義の限界とか終焉とか言っている人たちも、その先については誰も何の見通しも提示していないではないか。 もし資本主義に代わる新しい概念が芽生えつつあるのなら、その方向へ世の中をリードするだけのこと。 わざわざ限界とか終焉とかを騒ぐこともない。

 そこでだ、なにが問題なのか整理してみよう。 先ず資本主義そのものだが、それに代わるだけの普遍性を持った概念が出て来そうにないのが現実である。

 それはそうだろう。 なにしろ、資本主義は限りなく人間の本性に近いものを内在させているのだから。 人間の性(さが)といったものは、どうにもならない。 一方、社会主義や計画経済といったものは、頭で考える要素が強いところに、どうしても弱みや限界が来てしまう。

 人間だれしも、大なれ小なれ欲がある。 その欲も多種多様である。 いろいろな欲を自由自在に追及していく中で、様々な欲が自動的に調整されながら経済社会が成り立っていく。 それが資本主義というものである。 

 もっとも、時としてその調整作用がおかしな方向に偏ることがある。 それをみて、資本主義の限界とかを主張する見解が頭をもたげてくるのだ。

 最近であれば、株主資本主義ともいわれるものが挙げられよう。 いわゆるアクティビストに代表される株主の、あまりに短期視野の利益追求が企業経営のみならず、経済に大きなしわ寄せをもたらしている。

 彼らは企業を食い物にして一向に構わない。 自分たちの利益をたっぷりせしめた後は、もう野となれ山となれだ。 その企業がもたらしている社会的な価値、たとえば雇用とか地域経済のことなど知ったことではない。

 問題は彼らの主張が、多くの株主の共感を呼んで企業を追い込んでしまうところだ。 いわく、この事業部門を手放せばコスト削減ができて、利益は増えるはず。 いわく、この工場は閉鎖して経営資源を他にまわすべきだ、それが株価上昇につながる。

 そういった株主提案は、第三者的な株主も同調しやすい面を持っている。 早い話、年金運用でも株価が上がり成績が向上するのであれば良しとして、短期値ざや稼ぎをもっぱらとするヘッジファンドに大量の資金を預けたり、アクティビスト提案にしょっちゅう相乗りしているではないか。

 短期で現金回収を最大化しようとすると、どうしても部分最適の追求となっていく。 それはそのまま、全体最適をないがしろにしてしまい、経済社会に大きな弊害をもたらすことになる。 それが、金融バブルの崩壊で如実に表れたわけだ。

 確かに、こう見てくると資本主義は病んでいるといいたくもなる。 そこでだ、われわれの主張である本来の長期投資、それを主導する生活者株主が大きな意義を持つことになる。

 たとえば、年金の運用が短期の成績追求に走るのを誰も止められない。 それに対し、生活者株主が長期視野で企業を応援することで、いくらでもバッファーになれる。 彼らの短期利益追求に対し、われわれは長期の論理をぶつけてやって、マーケットで堂々と力の勝負をするだけのこと。

 マーケットという公開の場で堂々たる勝負を展開すれば、それを見て多くの人々がどちらを良しとするか判断できる。 そこから生れ出てくる大衆の行動こそが、マーケットの自浄作用であり資本主義の自然調節機能である。

 出張のため、明日の長期投資家日記はお休みです。